トキ(朱鷺、鴇、学名:Nipponia nippon)は、ペリカン目トキ科の鳥である。古典的な分類ではコウノトリ目トキ科に分類される。19世紀までは東アジアに広く分布し珍しくない鳥であったが、20世紀前半には激減した。2010年12月上旬の時点で中国・日本・韓国を合わせた個体数は1,814羽。学名は Nipponia nippon(ニッポニア・ニッポン)で、しばしば「日本を象徴する鳥」などと呼ばれるが、日本の国鳥はキジである。新潟県の「県の鳥」、佐渡市と輪島市の「市の鳥」である。
形態
体長は約76センチメートル、翼開長は約130センチメートル。朱色の皮膚が露出している顔、トキ亜科特有の下方に湾曲したくちばし(黒色。ただし先端は赤い)、後頭部にあるやや長めの冠羽が特徴である。全身は白っぽいが、春から夏にかけての繁殖期には首すじから黒い分泌物が出て、これを体に塗り付けるため頭から背のあたりが灰黒色になる。水浴びなどの後にその擦り付けを行うため、水浴び直後は特に濃く、ほとんど黒に近い。翼の下面は朱色がかった濃いピンク色をしており、日本ではこれを「とき色」(朱鷺色)という。脚も頭と同様に朱色で、虹彩は橙色。幼鳥は全身灰色で、頭部が黄色である。
サギ類が飛翔時に首を折り曲げるのに対し、トキは首を伸ばしたまま飛ぶ。また、クロトキなどとは異なり、飛翔時に脚の先が尾羽から出ない。
雌雄ともにほぼ同形であるが、以下のような特徴から判別できるとされる。ただしこれは飼育係が経験的に用いているものであって、学術的に研究されたものではない。また、野生個体や交尾行動にない個体についても適用できるか不明である。
分布
かつては北海道・本州・伊豆諸島・佐渡島・隠岐諸島・四国・九州・琉球諸島といった日本各地のほか、ロシア極東(アムール川・ウスリー川流域)、朝鮮半島、台湾、中国(北は吉林省、南は福建省、西は甘粛省まで)と東アジアの広い範囲にわたって生息しており、18世紀・19世紀前半まではごくありふれた鳥であった。日本では東北地方や日本海側に多く、太平洋側や九州ではあまり見られなかったようである。
しかし、いずれの国でも乱獲や開発によって19世紀から20世紀にかけて激減し、朝鮮半島では1978年の板門店、ロシアでは1981年のウスリー川を最後に観察されておらず、日本でも2003年に最後の日本産トキ「キン」が死亡したことにより、生き残っているのは中国産の子孫のみとなった。
野生では中国(陝西省など)に997羽(2010年12月現在) が生息しているほか、日本の佐渡島において2008年秋から2012年秋までに人工繁殖のトキ計107羽が放鳥されている。飼育下では中国に620羽(2010年12月現在)、日本に180羽(2013年4月現在)、韓国に13羽(2011年7月現在)がおり人工繁殖が進められている。
現在中国に生息している、またかつて日本に生息していたトキは留鳥(ただし、日本海側や北日本から、冬は太平洋側へと移動する漂鳥もいた)であるが、ロシアや中国北部、朝鮮半島など寒冷地に生息していたトキは渡りを行っていた。また、日本にいた個体も一部は渡りを行っていた可能性が指摘されている。
生態
トキ亜科の他種と同じくクチバシの触覚が発達しており、それを湿地、田圃などの泥中にさしこみ、ドジョウ、サワガニ、カエル、昆虫などを捕食する。稀にだが、植物質のものを口にすることもある。鳴き声は「ターア」「グァー」「カッ カッ」などカラスに似た濁った声で、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』によると、群れて鳴くと非常にうるさかったようである。この鼻声のような鳴き声については、秋田県にある民話が伝わっている(後述)。サギは首を曲げて飛ぶが、トキの場合は、コウノトリやツルと同様に首を伸ばしたまま飛ぶ。羽ばたき方はサギよりもやや小刻みで、直線的に飛行する。
トキを特異的に宿主としているダニにトキウモウダニ Compressalges nipponiae がおり、日本におけるトキの野生絶滅とともに、環境省版レッドリストにて野生絶滅と評価された。このダニも宿主同様1属1種であり、科のレベルで独立した種であるという説もある。なお、このダニは吸血性ではなく羽毛くずを餌とするようである。
通常は数羽から十数羽程度の群を作って行動するが、繁殖期にはつがいか単独で行動する。しかし近年の中国での野生個体の観察 や、過去の研究資料 から、「本来トキは集団で繁殖する習性を持っていたが、個体数の減少や環境の変化により集団繁殖が困難になった。最近の中国ではその本来の習性が回復している」と考えられるようになった。日本ではマツやコナラなど、中国(陝西省)ではクヌギやバビショウなどの木に、直径60センチメートルほどの巣を作り、4月上旬頃に3個から4個の淡青緑色の卵を産む。抱卵は雌雄交替で期間は約1ヶ月。繁殖期のトキは非常に神経質で、巣に人間や天敵が近付くとすぐに営巣を放棄してしまうが、一方で幼鳥の頃に親鳥とはぐれるなどした個体はよく人に慣れ、『キン』などは素手で捕獲されたほどである。
トキは繁殖期の前、1月下旬頃から頸側部から粉末状の物質を分泌し、これを水浴びの後などに体に擦りつけ、自ら「繁殖羽」の黒色に着色する。着色は2月下旬から3月中旬頃に完了するが、こすりつける行動は8月に入る頃まで続けられる。それをやめると、羽の色も次第に元の白色に戻る。このようなトキの羽色の変色方法は極めて珍しく、これまでに確認されていた羽色変化(換羽、磨耗、退色、脂肪分による着色など)のいずれとも異なる。この原理が解明されるのは20世紀も後半に入ってからのことであり、詳細については未だに分かっていないことも多い。
トキの羽色には白色のものと灰色のものがあること自体は、古くから知られていた。江戸時代後期の『啓蒙禽譜』では、「トキ」の横に「脊黒トキ」の名で繁殖期の背面が黒い姿を描いている。1835年にテミンクによって学名が付されたが、その後1872年にデビットによって中国で見られた灰色のトキが別種の "Ibis sinensis" と命名されている。デビットはその5年後の1877年に、M・E・オウスタレとの共著の中で、オウスタレの見解に従って「灰色型」のトキは変種であるとし、"Ibis nippon var. sinensis" と改めたが、いずれにせよ19世紀後半から20世紀半ばまでは「白色型」と「灰色型」が存在するという見方が主流であった。1920年にはハータートにより、中国秦嶺・朝鮮半島・日本のトキが「白色型」で、ロシアのウスリー地方のトキが「灰色型」との学説が提唱され、ラ・タウチェ、黒田長礼、水野馨、山階芳麿なども同様の報告を出した。トキの羽色が変色するという説は、佐藤春雄が1957年に発表した仮説、内田康夫の1970年の研究などが発表されるに至って、ようやく学会から認められるようになった。実は1891年にM・ベレゾフスキーによって繁殖羽の変色であるという説が既に発表されていたが、それまでは注目されることもなかったようである。
分類
トキは、伝統的な分類方法ではコウノトリ目トキ科トキ属に分類されるが、最新の研究結果から現在ではペリカン目トキ科トキ属とされている。一種のみでトキ属Nipponia を構成する。過去には繁殖期の灰色の個体が別種・変種とみなされたこともあったが、現在では亜種などはなく、日本・中国・朝鮮半島・ロシアのいずれのトキも完全に同一の種と考えられている。日本にいたトキと中国のトキのミトコンドリアDNAの差は 0.06% 程度であり、亜種といえるほどではなく個体間の変異程度にとどまる。トキのミトコンドリアDNAには今のところ5つの系統が確認されており、日本で最後まで生き残っていたキン、ミドリ、アオ、アカ、フク、ノリはタイプ1、中国で生き残っていたトキの子孫である友友、洋洋、美美はタイプ2である。しかし日本にも以前はタイプ2の(現在飼育・放鳥されているものと同系統の)個体がいたこと、さらに別の系統の存在も判明している。
学名
学名「ニッポニア・ニッポン」 "Nipponia nippon " の属名と種小名は共にローマ字表記の「日本」に由来するが、最初からそのように命名されたわけではない。シーボルトが1828年にオランダへ送った標本により、テミンクが1835年 "Ibis nippon " と命名し、シュレーゲルも論文執筆の際にはそれを用いた。しかし1852年にライヒェンバッハが "Nipponia temmincki" と全く新しい学名を命名した。
学名の命名は先取権の原則により最初につけられた方が有効となるので、ライヒェンバッハの命名は種の名称としては無効だが、属の命名としては新属を提唱したと見なされうる。ライヒェンバッハの属名とテミンクの種小名をあわせた "Nipponia nippon " は、1871年にグレイによって初めて用いられた。1922年には日本鳥学会の『日本鳥類目録』で採用されたこともあり、現在ではこの学名が一般に用いられるようになった。
各地域における状況
トキは日本では古くから知られていた。奈良時代の文献には「ツキ」「ツク」などの名で現れており、『日本書紀』『万葉集』では漢字で「桃花鳥」と記されている。平安時代に入ると「鴾」や「魴〟vの字が当てられるようになり、この頃は「タウ」「ツキ」と呼ばれていた。「トキ」という名前が出てくるのは江戸時代だが、「ツキ」「タウノトリ」などとも呼ばれていたようである。
トキの肉は古くから食用とされ、『本朝食鑑』(1695年)にも美味と記されている。しかし「味はうまいのだが腥(なまぐさ)い」とあり、決して日常的に食されていたのではなく、冷え症の薬や、産後の滋養としてのものであったとされる。「トキ汁」として、豆腐あるいはネギ・ゴボウ・サトイモと一緒に鍋で煮るなどされていたようである。しかし、生臭い上に、肉に含まれる色素が汁に溶出して赤くなり、また赤い脂が表面に浮くため、灯りのもとでは気味が悪くてとても食べられなかったため「闇夜汁」と呼ばれた。また、羽は須賀利御太刀(伊勢神宮の神宮式年遷宮のたびに調整する神宝の一つ。柄の装飾としてトキの羽を2枚使用)などの工芸品や、羽箒、楊弓の矢羽根、布団、カツオ漁の疑似餌などに用いられていた。
なお、トキは田畑を踏み荒らす害鳥であった。仏教の影響で肉食が禁じられ鳥獣類が保護されていた江戸時代においても、あまりにトキが多く困っていたため、お上にトキ駆除の申請を出した地域もあったほどである。
江戸時代までトキは日本国内に広く分布したが、明治に入り、日本で肉食の習慣が広まり、また経済活動の活発化により軍民問わず羽毛の需要が急増したため、肉や羽根を取る目的で乱獲されるようになった。
1925年(大正14年)か1926年(大正15年)ごろには絶滅したとされていた。その後、昭和に入って1930年(昭和5年)から1932年(昭和7年)にかけて佐渡島で目撃例が報告され、1932年(昭和7年)5月には加茂村(→両津市、現佐渡市)の和木集落で、翌1933年(昭和8年)には新穂村(現佐渡市)の新穂山で営巣が確認されたことから、1934年(昭和9年)12月28日に天然記念物に指定された。当時はまだ佐渡島全域に生息しており、生息数は100羽前後と推定されていた。
終戦後は、1950年(昭和25年)を最後に隠岐諸島に生息していたトキの消息は途絶え、佐渡での生息数も24羽 と激減していたことから、1952年(昭和27年)3月29日に特別天然記念物に指定され、1954年(昭和29年)には佐渡で、1956年(昭和31年)とその翌年には石川県で禁猟区が設定された。しかし、禁猟区には指定されたものの生息地周辺での開発などは制限されなかった。また、民間の佐渡朱鷺愛護会や愛好家の手でも小規模な保護活動が行われるようになったが、1958年(昭和33年)には11羽(佐渡に6羽、能登に5羽)にまで減少した。1971年(昭和46年)には、能登半島で捕獲された『能里(ノリ)』が死亡し、佐渡島以外では絶滅した。トキの減少の一因として農薬(による身体の汚染・餌の減少)が取り上げられることが多いが、日本で化学農薬が使用されるようになったのは1950年代以降 であり、その頃にはすでに20羽ほどにまで個体数を減らしていた。
1965年(昭和40年)、幼鳥2羽(『カズ』と『フク』)を保護したことから人工飼育が試みられるが翌年、カズが死亡。解剖の結果、体内から有機水銀が大量に検出されたため、安全な餌を供給できる保護センターの建設が進められる。1967年(昭和42年)トキ保護センター開設。フクと、1967年(昭和42年)に保護された『ヒロ』『フミ』の計3羽がセンターに移された。翌1968年(昭和43年)『トキ子』(のちに『キン』と命名される)を保護。1970年(昭和45年)には能登の最後の1羽『能里(ノリ)』を保護し、トキ保護センターに移送する。キンがメス、能里がオスだったことや盛んに巣作りを行っていたことから、繁殖に期待が持たれたが、1971年(昭和46年)に能里が死亡。人工飼育下のトキはキン1羽となった。(フク、ヒロおよびフミは1968年(昭和43年)に死亡)
1968年(昭和43年)にNHKがトキの営巣地である黒滝山上空にヘリコプターを飛ばし空撮を行ったが、1969年(昭和44年)にトキが黒滝山の営巣地を放棄し人里近い両津市へ移動したのは、そのためだという指摘がある。番組の放送があるまで空撮があったことに気付いていた者はいなかったが、空撮は通年にわたって行われた(はずだ)と批判する声もある。しかし、番組の責任者によるとヘリコプターを飛ばしたのは一度だけで、それも営巣期を避け、空撮以外の取材も慎重に行ったという。 1981年(昭和56年)1月11日から1月23日にかけて、佐渡島に残された最後の野生のトキ5羽すべてが捕獲され、佐渡トキ保護センターにおいて、人工飼育下に移された。これにより、日本のトキは野生絶滅したとされる。
1993年(平成5年)4月1日に国内希少野生動植物種となり、同年11月26日に保護増殖事業計画が定められた。
1999年(平成11年)9月15日に鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律により、保護繁殖を特に図る必要がある鳥獣に指定され、2003年(平成15年)4月15日に鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律を全部改正した鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律により、希少鳥獣に指定される。
1981年に捕獲され、佐渡トキ保護センターにおいて人工飼育下に移されたトキは足輪の色から『アカ』『シロ』『ミドリ』『キイロ』『アオ』と命名された。この時点において、1981年以前に捕獲されたトキのうち、生き残っていたのは『キン』のみであり、日本産トキはわずか6羽、うちオス個体は『ミドリ』の1羽のみとなっていた。また、年内のうちに『アカ』『キイロ』が死亡。その後、人工繁殖が試みられ、『シロ』と『ミドリ』のカップリングに成功したものの、産卵時に卵が卵管に詰まり『シロ』が死亡したため、繁殖には失敗している。1995年に『ミドリ』が死亡し、2003年10月10日朝には『キン』の死亡が確認され、日本産のトキはすべて死亡した。ただし、生物学的にはまったく同一種である中国産のトキを用いて人工繁殖を行っているため、日本におけるトキの扱いは「絶滅」ではなく「野生絶滅」のままである。なお、「中国産」と「日本産」の差異は個体間程度のものにとどまるため、中国産のトキは外来種ではない。また、昭和初期の佐渡島や韓国には、現在日本で繁殖・放鳥が進められている「中国産」トキと同じ、ミトコンドリアDNAのハプロタイプがタイプ2にあたる個体がいたことも判明しており、日本と大陸の間でも遺伝的交流があったとみられる。『ミドリ』や『キン』の組織は冷凍保存されており、この2羽の皮膚細胞から人工多能性幹細胞(iPS細胞)を作り、日本産の遺伝子を受け継ぐ個体を復活させる取り組みを、国立環境研究所が2012年から開始している。
日本産トキと中国産トキの間の人工繁殖の試みとしては、まず1985年、中国産トキのオス個体『ホアホア』と『キン』との間の繁殖が試みられている。これは1989年まで4期に渡って行われたが成功していない。続いて、1990年には『キン』を中国に移し、3期に渡って北京動物園で飼育されていたオス個体『ヤオヤオ』との間の繁殖が試みられたが、これも失敗に終わっている。中国産トキ同士の人工繁殖の試みは、1994年、オス個体『ロンロン』とメス個体『フォンフォン』が中国から佐渡に移され、ペアリングが行われた。しかし、飼育途中に『ロンロン』が急死したため、人工繁殖を中止し、『フォンフォン』は中国に返還された。それと前後し、『ミドリ』が死亡したため、数年間に渡って日本で飼育されているトキは『キン』のみとなり、人工繁殖も行われなくなった。
1998年、中国の国家主席であった江沢民が中国産トキのつがいを日本に贈呈することを表明し、翌1999年1月30日にオス個体『ヨウヨウ(友友)』メス個体『ヤンヤン(洋洋)』が日本に寄贈された。2羽は新潟県新穂村(現佐渡市)の佐渡トキ保護センターで飼育されることとなり、人工繁殖が順調に進められた。日本に「譲渡」されたのはこの『ヨウヨウ』と『ヤンヤン』が初めてで、2011年現在でもこの2羽のみである。『ヨウヨウ』と『ヤンヤン』のほかに3羽が日本に送られているが、いずれも中国から借りているもので、その個体と日本の個体との間に生まれた子供は、半数を中国に返還することになっている。1999年5月21日には、『ヨウヨウ』と『ヤンヤン』に間にオスのヒナが誕生し『ユウユウ(優優)』と名付けられた。これが日本初の人工繁殖例である。
2000年、日本における人工繁殖の成功を受け『ユウユウ』のペアリング相手としてメス個体『メイメイ(美美)』を中国から借り受けた。また、『ヨウヨウ』『ヤンヤン』のつがいからは、2000年に2羽、2001年に3羽のヒナが誕生している。2002年からは『ヨウヨウ』と『ヤンヤン』、『ユウユウ』と『メイメイ』のつがいを中心に人工繁殖が続けられ、この年から2003年にはさらにその子孫のペアで人工繁殖が行われていたほか、2004年には自然育雛にも成功している。以後、つがいが増えたこともあり、順調に人工飼育数は増加している。
こうした飼育センターで繁殖されたトキのヒナの名前は当初、日本全国の小学生から募集した案の中から環境庁(現環境省)が命名していた。2001年7月に、環境省は個体名称による管理を廃止することを決めたが、2001年生まれの個体にも名前を付けたいと新穂村から要望があり、環境省の許可のもと、新穂村が新穂小学校・行谷小学校の児童が出した案をもとに、優優と美美の間に生まれた子には行谷小学校児童による「つばさ」「げんき」「みらい」「くう」「にいぼ」、友友と洋洋の間に生まれた子には新穂小学校児童による「さくら」「たろう」「じろう」「かえで」「ひかる」「わたる」と命名した。なお、2002年以降に日本で生まれた個体はすべて番号のみで管理されるようになっており、これらの2001年生まれの個体の名前も現在では使われなくなっている。
飼育数の増加に伴い鳥インフルエンザなどの感染症が発生した場合に一度にすべてが死亡することを避けるため、環境省によりトキの分散飼育が計画され、これに対して新潟県長岡市、島根県出雲市、石川県が受け入れ先として立候補、それぞれトキ亜科の近隣種を導入して飼育・繁殖の訓練を行った。2007年12月に4羽(2つがい)が多摩動物公園に移送され非公開の下で分散飼育が開始された。その後も、2010年1月にいしかわ動物園で、2011年1月に出雲市トキ分散飼育センターで、2011年10月に長岡市トキ分散飼育センターで、それぞれ分散飼育が開始された。
こうしたトキの飼育や繁殖は野生のトキを日本に復活させることを最終目標としており、2007年6月末から「順化ケージ」での野生復帰訓練が始められ、第1回として2008年9月25日に、佐渡市小佐渡山地の西麓地域にて10羽が試験放鳥された。この放鳥により1981年の全鳥捕獲以来、27年ぶりに日本の空にトキが舞ったことになる。放鳥されたトキには個体識別番号(飼育下の個体番号とは別のもの)が付されており、翼のアニマルマーカー(羽の一部に色をつけたもの)や、脚のカラーリング、金属脚環などで個体を識別できるようになっている。うち6羽にはGPS発信器も付けられている。
2009年以降も放鳥は続けられたが、第1回の試験放鳥の際、1羽ずつを小箱に入れて放鳥したためにパニックを起こし散り散りになったことを踏まえ、放鳥場所に設置された仮設ケージで約1か月間に20羽を飼育し、放鳥時はケージを開放してトキが自然に出て行くのを待つ「ソフトリリース方式」を採るようになっている。本来ならば2010年から春の放鳥も行われる予定であったが、2010年3月10日に佐渡トキ飼育センターの順化ケージがテンに襲われ、9羽が死亡する事故があったため、テンの対策工事が終わるまで延期されることになり、2011年から春と秋の年2回実施するようになっている。
第6回までに放鳥された91羽のうち、2012年9月17日の時点で4羽が既に「死亡」、26羽が1年以上に渡って確認が取れていない「死亡扱い」となっており、他にも5羽が6か月以上確認がとれない「行方不明扱い」、過去6か月間に生存が確認されている「生存」個体は54羽となっている。また、2012年1月には、猛禽類による負傷で2羽が相次いで保護されている。これらの放鳥は全て佐渡島で行われたものであるが、放鳥後に数羽(特にメス)が佐渡島から離れ、新潟県の本州側や、長野、富山、石川、福井、山形、秋田、宮城、福島の各県にも飛来している。複数の個体が佐渡島を離れ生息していることについて、佐渡市長の髙野宏一郎は「佐渡島に野性のトキを復活させるという当初の目的から外れており、好ましいことではない」と不快感を表明している。
佐渡市の地元住民の多くはトキの野生復帰に肯定的であるが、反対派や「どちらとも言えない」としている住民も少なからずいる。理由として、高齢化が進む農村においては農作業に必要な除草剤・殺虫剤の使用が制限されること、稲が踏まれて荒らされることなどが挙げられており、これは反対派だけでなく賛成派からも懸念されている。
2012年4月22日、2011年に放鳥されたトキ同士のつがい(3歳オスと2歳メス)から、ひなが誕生したことを確認したと環境省が発表し、翌23日には同じつがいの卵から更に2羽が孵化していたことが判明した。その後確認されたひなも含めると、3組のつがいから計8羽のひなが孵化している。この8羽のひなに対し佐渡市は愛称を命名することを発表し、全国から案を募集したうえで5月23日に愛称を発表した。第4回放鳥のペア(3歳オスと2歳メス)のひなが「みらい」「ゆめ」「きぼう」、第3回放鳥のペア(5歳オスと3歳メス)のひなが「きずな」「ぎん」「きせき」、第2回放鳥のペア(4歳オスと4歳メス)のひなが「そら」「美羽(みう)」となっている。野生下でのひなの孵化を受け、環境省がレッドリストにおけるトキの位置づけを「野生絶滅」から「絶滅危惧IA類」へ引き下げることを検討していると一部で報じられたが、まだ基準をまだ5年間満たしていないこと、再導入個体については「生存できる子孫」を生産できていることが条件であるため、2012年の改訂ではカテゴリー(ランク)の変更は見送られた。
かつては中国においてもトキは非常に広い範囲(北は吉林省、南は福建省、西は甘粛省まで)に生息していたが、20世紀前半に個体数が激減し、1964年甘粛省康県岸門口での目撃報告を最後に見られなくなったため、中国科学院動物研究所が「絶滅」の最終確認として生息数調査を行ったところ、1981年5月に陝西省洋県の姚家溝と金家河で野生のトキ7羽を発見した(秦嶺1号トキ個体群)。その後生息地の保護と並行して人工繁殖行った結果、中国のトキは2008年8月現在で1100羽まで数を増やしている。最初の10年ほどは、毎年数羽が巣立っていたにもかかわらず個体数は横ばい程度であった。しかし1989年に北京動物園のトキ飼養繁殖センターが世界初の人工繁殖に成功し、その頃から野生トキの個体数も順調に増加している。北京動物園が確立したトキの人工繁殖技術は、中国国家発明賞の二等賞を受賞した。トキの繁殖地は洋県、西郷県、城固県の3県に跨り、行動範囲はさらに南鄭県、佛坪県、勉県、略陽県、石泉県、漢中市漢台区にも及ぶ。人工飼育の拠点としては北京動物園のほか、陝西トキ救護飼養センター(洋県)と陝西省珍希野生動物救護飼育研究センター(周至県)がある。
中国での保護活動が成功した背景として、開発の手があまり入っていなかったことや、1990年に37,549ヘクタールにわたる陝西省トキ自然保護区が制定されるなどの政府主体の強力な保護活動が行われ、早期に生息環境が整備されたことが挙げられる。洋県では化学肥料・農薬の使用や森林の伐採が禁じられ、また開発も大幅に制限されており、これにより洋県で年間2000万元(約3億円)の減収となっている。しかしトキの生息域内にはひどく貧しい地域が多く、電気も通っていない集落もあるような状態であったため、生息地の保護と同時に現地住民への援助・負担の軽減も幅広く行われ、また地元住民からトキ保護職員を採用するなどの制度も設けられている。このように、政府と住民が協力してトキを保護していく関係を形成することに成功したことも、中国におけるトキの個体数回復の大きな要因である。
2003年に陝西省人民政府は、当時は省級 であったトキ自然保護区を国家級自然保護区へ昇格させるよう中央政府国務院に申請し、2005年に「陝西漢中朱鷺国家級自然保護区」として国家級に昇格した。
2012年の野生トキの繁殖結果をみると、営巣総数が183巣、巣立ち個体数が276羽となっている。これは、野生下の1年分だけでも日本のトキの総数を上回る数のひなが巣立っていることになる。
中国は2003年から国鳥制定に向けて準備を行っており、タンチョウが人気1位、トキが2位となっている。
かつては朝鮮半島にも多数のトキが生息したとされ、20世紀初頭には数千羽を超える大群が観察されたこともある。また山階芳麿によると、1936年の時点ではソウルの動物園でも飼育されていたが、他の鳥と一緒にされ、来園者からもほとんど注目されていなかったという。捕獲記録は今泉吉貞による1937年・咸鏡南道咸興のものが最後で、その後は1965年(平安南道師川)、1966年(板門店)、1978年(板門店)と3例の観察記録があるのみ。朝鮮半島では絶滅したものと考えられている。
2008年8月25日、中国の胡錦濤国家主席が韓国にトキを1つがい寄贈することを表明し、同年10月中旬に空路で移送された。これに備えて慶尚南道昌寧郡に牛浦トキ復元センターが建設された。贈られたのは洋洲(オス)と龍亭(メス)で、2009年にはこのつがいの卵から4羽のひなが孵化したが、そのうち2羽は既に死亡している。2010年には3羽が孵化し、1羽が死亡した。2012年5月現在、韓国のトキは洋洲と龍亭、2009年生まれの タル(・ー・ィ)とタミ(・、・ク)、2010年生まれの ポロニ(尞ャ・ア・エ)とタソミ(・、・誤ック)、2011年生まれの個体が7羽、2012年生まれのひなが6羽、計19羽となっている。人工繁殖が順調に進めば、2018年に近くの牛浦沼に放鳥する予定。
ロシアではアムール川・ウスリー川流域やハンカ湖、イマン湖、シンカイ湖、ウラジオストク周辺などで見られたが、19世紀後半から個体数が減少しはじめ、1949年・ハバロフスク、1962年・ハンカ湖、1963年・ハサ湖の観察記録を最後に姿が見られなくなった。
伝承や作品の中のトキ
秋田県大館市には以下のような話が伝わっている。
諸国を回っていた左甚五郎という男がおり、大館の地に神社を建てることになった。その途中、腹が減ったので地元の農民に握り飯を乞うたものの、「お前のような下手糞な大工にはやれねぇ」と断られてしまったため、怒って杉のくず材で鳥を模り、それに田畑を荒らさせた。その鳥がトキであるが、彼は怒りのために鼻を開けるのを忘れてしまい、そのため鳴き声が鼻声になってしまった。
秋田県では他にもダオ(トキのこと)を用いる慣用句が多数伝えられている。また新潟県に伝わる鳥追歌では、スズメやサギと並んでトキが「一番憎き鳥」として挙げられている。
数は多くないが詩歌などに詠われることもあり、かつてはトキが一般的で人間の生活の近くにいた様子が窺える。鳥類学者で、俳人でもあった中西悟堂も、トキを題材とした短歌を詠んでいる。
近年のトキを題材にした作品として、小説では、芥川賞候補・三島賞候補となった阿部和重「ニッポニアニッポン」(2001年)や、篠田節子の「神鳥(イビス)」(1993年)がある。「ニッポニアニッポン」はトキの殺害を計画する少年を描いたもので、「神鳥(イビス)」は獰猛なトキが人間を襲い食らうホラー小説である(なお、実際のトキは決して攻撃的ではなく、人間を恐れすぐ逃げる)。音楽作品では吉松隆の管弦楽曲「朱鷺によせる哀歌」(1980年)や鈴木輝昭の女声合唱とピアノのための組曲「朱鷺」(1995年)などが挙げられる。
日本以外では、日本の統治下にあった朝鮮半島において、独立を願って「トキ」と題した童謡が制作された。
その他
1960年(昭和35年)、東京で開かれた第12回国際鳥類保護会議において国際保護鳥に指定され、会議を記念してトキをあしらった記念切手も同年5月24日から発行された。その後、自然公園50年として1981年(昭和56年)7月27日から、1999年(平成11年)7月16日と2009年(平成21年)には新潟県のふるさと切手として、それぞれトキの切手が発行されている。また2000年(平成12年)8月1日以降発行のはがきにもトキが描かれている。
トキが佐渡の自然の中で繁殖・生育するには化学肥料・農薬を減らしトキの餌となる蛙やドジョウをはじめとする多様な生物が共存できる水田が欠かせないと考えられる。このことからエコファーマーの認定を受けた生産者によって作られる佐渡産コシヒカリを「朱鷺と暮らす郷」と命名し売り上げの一部をトキ保護募金に寄付する仕組みを作った。
2009年9月29日第2回放鳥記念に開催された「朱鷺と翔ける島づくりフォーラム」において歌手の加藤登紀子が「佐渡トキ環境保護大使」に任命される。名前に「とき」がつき、国内産最後のトキ「キン」を観るため以前佐渡を訪れたことがあり、国連環境計画親善大使として環境保全活動に従事していることから白羽の矢が立った。任期は3年間。